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世界の100人のジャーナリストが選んだ 『ベスト・オブ・ジロ・デ・イタリア』
2012.12.31
「もし世界が終わるなら…?!」ジロ主催者が世界の100人のジャーナリストにアンケート
2012年12月に世界中でブームになった『マヤ暦人類滅亡の日』。それに合わせてジロ・デ・イタリアの主催者は、世界中の主要メディア(サイクルスポーツ誌も選ばれました!)のジャーナリスト100人に「もしも世界が終わるとしたら…」という趣向で「史上最高のジロは?」「最大のライバル関係は?」といった10項目のアンケートを実施した。そのアンケートの結果はどれもうなずけるものばかりだった。
史上最高のジロ:トップ3に選ばれたのは1949年(コッピ)、1988年(ハンプステン)、1998年(パンターニ)
ジロといえば時代も国境も越えて根強い人気があるのは、やはりカンピオニッシモ(最高のチャンピオン)と呼ばれたファウスト・コッピ(1919-1960)だった。『100年以上の歴史で、もっとも素晴らしかったジロ・デ・イタリアは?』という質問で1位に選ばれたのは、コッピが3度目の総合優勝を果たした1949年のジロだった。2位は、有名な吹雪のガビア峠区間を制してアンディ・ハンプステンが優勝した1988年、3位はイタリアで90年代に絶大な人気を誇ったクライマー、マルコ・パンターニが総合優勝した1998年だった。 『区間優勝でもっとも素晴らしかったのは?』という質問でも、トップに選ばれたのは1949年のコッピの驚異的な独走での区間優勝だった。それはクネオからピネローロまでの254kmで競われた第17ステージで、コッピは192kmもの距離を独走し、マドレーヌ峠、バール峠、イゾアール峠、モンジネーブロ峠、セストリエール峠を単独で上り、ピネローロで後続のジーノ・バルタリ(1914-2000)に11分52秒、3位のアルフレード・マルティニ(1921-)にはほぼ20分差をつけてゴールした。 『ジロの精神をもっとも象徴する声明、あるいは引用は?』という質問で1位に選ばれたのも、コッピが独走優勝した1949年の第17ステージにまつわるものだった。当時はレースの放送がラジオしかない時代で、RAIの解説者だったマリオ・フェレッティが、そのラジオ中継番組の冒頭に言ったこの言葉は伝説になっている。「リードしているのはたった一人だけです。彼のジャージはチェレステと白。彼の名前はファウスト・コッピです」
ジロ最大のライバルはコッピ対バルタリ!
『ジロで最大のライバル関係は?』という質問は、他に選択肢がないだろう。もちろん選ばれたのはファウスト・コッピ(1919-1960)とジーノ・バルタリ(1914-2000)だった。1936年と1937年にジロを連覇したバルタリは、5歳年下の若きコッピと1940年代に数々の死闘を繰り広げだ。この2人のドラマチックなライバル関係に匹敵するものは、ジロ以外のレースの歴史を探してもないだろう。 『ジロの価値をもっとも象徴するチャンピオンといえば?』という質問にも、バルタリとコッピの2人は仲良く名を連ねている。“コルサ・ローザ(バラ色のレース)”と呼ばれるジロ・デ・イタリアの価値を、真に象徴する3大チャンピオンに選ばれたのは、バルタリ、コッピ、そしてフェリーチェ・ジモンディ(1942-)だった。
マーニの写真が『ジロでもっとも象徴的なイメージ』
ジロでもっとも象徴的なイメージ(写真)は?という質問で1位になったのは、フィオレンゾ・マーニ(1920-2012)の写真だった。それは1956年のジロの第16ステージ、ボローニャからサンルーカまでの山岳タイムトライアルで、マーニは前日のステージで鎖骨を骨折していたため、ペダルを強く踏むことができなかった。メカニックのファリエロ・マージの提案で、彼は痛みと闘うためにハンドルに結びつけたチューブラーを噛みながら走ったのだ。その壮絶な写真は、100年以上のジロの歴史のなかでもっとも象徴的であると評価された。
『もっとも強く心に訴えたフェアプレー』はウェイラント追悼
2011年のジロ第3ステージの落車で命を落としてしまったベルギーのウォートル・ウェイラント(1984-2011)の事故は、誰もがけっして忘れることのできない悲劇であり、これからもジロの歴史を振り返れば、かならず語られるエピソードになるだろう。『ジロでもっとも強く心に訴えたフェアプレーの行為は?』という質問に選ばれたのは、その事故の翌日に行われた第4ステージで、集団と沿道に集まった何10万人ものファンが心を1つにし、ウェイラントを追悼したことだった。 * * * * その一方で『ジロの歴史でもっともドラマチックな瞬間は?』と『ジロで最高のサプライズは?』という質問で1位に選ばれたのは、日本ではあまり馴染みのないエピソードだったが、100年以上あるジロの歴史には、さまざまなドラマがあったことを物語っている。 『ジロで最高のサプライズは?』 1954年のジロで、ユーコ・コブレ(1950年のジロ総合優勝者)のアシストとして走っていたスイス人のカルロ・クレリーチ(1929-2007)は、自転車競技史上もっとも有名な“まぐれ攻撃”の後、総合優勝した。クレリーチはナポリからラクイラで行われた第6ステージで4人の選手と一緒に逃げ、集団に30分以上のタイム差を付けて区間優勝し、マリア・ローザを獲得した。クレリーチはすぐれたクライマーではなかったが、誰もその後のステージで彼からこのタイム差を取り戻せなかった。 『ジロの歴史でもっともドラマチックな瞬間は?』 1946年6月30日、ロビーニョからトリエステまでで行われた第12ステージ。トリエステが新しく作られたユーゴスラビアの一部になることを望んでいた反イタリア活動家たちは、ピエルス村の2km東でジロの集団を止めた。彼らは道路をセメントブロックでふさぎ、選手たちに石や釘を投げつけた。ジロの主催者は、その日のゴールをピエルス村に変更する決断を下し、総合成績はニュートラルにした。しかし、トリエステ生まれのジョルダーノ・コトゥールに先導された何人かの選手は、とにかくトリエステまで走ることを主張した。
メルクスの区間優勝が『ジロの歴史でもっとも素晴らしい偉業』
ジロのさまざまなベストを選ぶ10項目を締めくくった最後の質問は『ジロの100年以上の歴史でもっとも素晴らしい偉業は?』だった。その栄光のナンバーワンに輝いたのは、1968年にゴリツィアからトレ・チーマ・ディ・ラバレドまでの第12ステージで優勝したエディ・メルクス(1945-)だった。彼はこの山岳区間で優勝してマリア・ローザを獲得し、22歳の若さでジロ初優勝を果たした。2位は1999年の第15ステージ、ゴールへと向かうオロパ峠のふもとでメカニカルトラブルに見舞われたにもかかわらず、驚異的な走りで区間優勝したマルコ・パンターニ(1970-2004)、3位は『もっとも素晴らしかった区間優勝』にも選ばれた、1949年の第17ステージで優勝したファウスト・コッピ(1919-1960)だった。 世界のジャーナリストが選んだ『ベスト・オブ・ジロ・デ・イタリア』では1位には入らなかったパンターニだが、年末にガゼッタ・デッロ・スポルト紙がウェブサイト上で行った『史上最高の自転車選手は?』というアンケートでは、44.2%という圧倒的な得票率でトップに立った。この結果は、パンターニが今でもイタリアで愛され続けているカンピオーネであることを物語っていた。ちなみに2位はエディ・メルクス(26.8%)、3位はファウスト・コッピ(14.7%)だった。
…マヤ暦人類滅亡の日が過ぎても人類は滅亡しなかったので、ジロ・デ・イタリアはこれからも歴史を刻み、素晴らしいドラマとチャンピオンを誕生させるだろう。2013年のジロは5月4日にイタリア南部のナポリで開幕する。