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日本シクロクロス界の第一人者、辻浦圭一ロングインタビュー
2012.10.12
辻浦圭一という選手をご存じだろうか? 2003年から2010年まで全日本シクロクロス選手権大会を9連覇する偉業を成し遂げた、日本のシクロクロス界を代表する選手だ。だが、彼は今年の春、重症筋無力症という難病だと診断される。それは選手生命すら危ぶまれるほどのものだった。
そんな逆境から、9月23日に松本で開催された「カスティール・サイクルクロス・マツモト」で、再びレースコース上に帰ってきた。そんな不屈の精神を持つ辻浦圭一とはどんな人物なのか。本誌・岩崎がインタビューした。
●子供の頃はどんな人だったんですか?
奈良の田舎で育ったんですけど、遊びっていったら釣りか泥遊びでしたね。家の中ではほとんど遊ばなくて外ばかり。わんぱくでいたずらな“ちょかちん”でした。まわりの友達はおとなしい子が多くて、自分は結構ひとりで“ちょかちょか”してる感じだったんで、ひとりで遊ぶことも多かったですね(笑)。
●中学、高校時代はどんなことに興味があったんですか?
小学校のときは少年野球をやっていて、6年生のときにはキャプテンでした。でも、実力はなくて、ライトで8番バッターでした。キャプテンだった理由っていうのが、じゃんけんで勝ったから。「キャプテンのくせに……」みたいなことを言われるのが本当にイヤでイヤで。でも、球技は好きだったんで中学校に入ってからは卓球をやってました。
卓球はそれなりだったんですけど、当時出会ったアウトドアが好きな友達の影響で、キャンプとかツーリングとかにハマりました。別の友達は釣りが好きで、彼にも影響を受けましたね、ブラックバスとか。移動手段はママチャリだったんですけど、坂道が多かったんで「ラクに移動したい!」と思ってMTBを買ってもらったんです。
それがきっかけで、どんどん自転車が好きになっていって……。ある日ツーリングをしているときに川の向こうにあった高校(吉野高校)に目をやると『自転車競技部インターハイ出場』という大壇幕を見つけて、「高校入ったら自転車をやろう!MTBをやろう!」って決めたんです。
でもこの話にはオチがあって、高校に入学して入部届けを出して、面接のときに知ったんですけど、MTBがなかったんです! トラックとロードしかなったんですが、入ってしまった以上3年間やろうって決めました(笑)。
●シクロクロスとの出会いはいつですか?
高校卒業後は、自転車好きが高じて自転車企業に就職。そこにあったロードの実業団チームで走っていたんですけど、その会社が倒産してしまったんです。で、フリーターになった頃に東洋フレームの石垣鉄也さん(取締役社長)に出会って、「冬の間はシクロクロスしろ!」って言われたのが、シクロクロスを始めたきっかけですね。20歳でした。
なにも知らないまま乗っていたから、最初は上手くコントロールできなくてもどかしさでいっぱいでしたね。「こう走りたい!」っていうイメージはあったけれど、全然できませんでした。
ちょうどその頃、同じチームだった池本真也さんに乗り方を教えてもらったんです。横浜の基地のまわりで周回練習したり、インターバル練習したりして、ノウハウを教わって。そのおかげで、21歳のときにチェコの世界選の日本代表に選ばれました。
●どうしてシクロクロスにハマったんですか?
池本さんがすごく上手かったんで、なんであんな上手く走れんのやろ?って思いました。自転車を操ることの難しさがすごくあって、それを追求して、身につけていくのが楽しかった。思い通りに走れたときの喜びがすごかったからですね。
●プロ選手になったのはいつですか?
滋賀県の野洲で行なわれた全日本選手権で優勝したことをきっかけに、ブリヂストンのMTBライダーとして契約しました。
●ちなみに、そのときのお給料はそれだけで生活できるものだったんですか?
いえ、それは無理でしたね。でも、なによりも走らせてもらえる環境に身を置きたいと思っていました。3年くらいはバイトと練習の日々でしたね。松本に引っ越してきたのはそのときです。
●プロになって、全日本で優勝したとき、ライバルは誰でした?
池本さんですね。先輩で、チームメイトで、ライバルでした。優勝したときは、池本さんを越えた!って気持ちはまったくなくて、勝たしてもらったって気持ちでした。
●全日本選手権で9連覇をしましたが、それはどうして叶ったと思いますか?
練習はもちろんですが、シクロクロスって自分ひとりではできないんですよ。走るのはひとりですけど、レースにはピットがあって、トラブルがあれば機材を交換したりするんです。自分がいくら勝ちたいと思ってもひとりでは難しい。まわりのスタッフの人たちと自分の思いが変わらずに同じ方向を向いていたからだと思います。
●昨年の11月、全日本選手権での10勝目は、意識していましたか?
正直、勝負に対して執着がなかった。いいレースをしようと思っていたのが敗因ですかね。今思えばそういう気持ちがあったから、勝ちに対する執着がなかったからダメだったと思います。
●そういう気持ちになったのは、病気も影響しているのでは? 病気のことを教えてください。
あるかもしれませんが、レースについては、それをいいわけにはしたくないですね。
今年の1月にベルギー遠征をしているときに、物が二重に見え出したんです。帰国してすぐに入院。3月に検査結果が出たんですけど、病名は重症筋無力症でした。1年~2年ほど前から影響があったのではということでした。
昨年の5月頃から、練習はできるんですけど、次の日継続して練習ができなかったり。5月という季節の変わり目で体がすごくダルくて鬱病かもしれないとも思いました。いくら練習しても調子が上がってこない……。そんな症状がありました。
入院してからは、だるさ、倦怠感、気がついたら寝ているとか、そんな状況が2月から1カ月くらい続きましたね。食事も最初はご飯だったんですけど、箸が握れなくなって、次はパンに変えてもらったんですけど、今度はパンがかめなくなって……。
●レースの最先端にいたことと、病気で動けなくなったことを経験して入院中はどういうことを考えて過ごしていましたか?
全日本で負けて、プロチーム契約もなくなって、なおかつ体も動かなくなって。どうしようという焦りはまったくなくて、その日、その日にある体の変化をどう切り抜けるかってことで精一杯でしたね。これからどうするか? じゃなくて今日どうして生き延びるかってことがすべてでした。考える余裕がないくらいギリギリな生活でした。自転車のことすら考えられなかったです。でも落ち込むことはなかったですね。これはしょうがないな!って、あきらめるんじゃなくて、そういうもんだって気持ちを切り替えました。まわりからすると能天気だなって言われたけど、そうするしかなかったですね。
●そういう状況をどういう風に抜け出せたのでしょうか?
お見舞いに来て下さった人が心の支えになりました。入院から毎日来てくれた人もいましたし。そういう人たちの気持ちがありがたくて、また自転車界に戻りたいという気持ちになりました。その人たちの「がんばれよ!」って言葉や気持ちを素直に受け入れて、できることを日々やっていました。
●苦難を乗り越えて、まわりの人の支えがあって、2年前から計画していたこの『カスティールサイクルクロスマツモト』を実現しましたが、やり終えてどういう気持ちですか?
1回目というよりは0回目という意識でやっていて、僕たちのなかでは来てくださった人たちを満足させたいという気持ちでやりました。青年会議所のひとたちもとても苦労したと思います。それでも、ここに来た人たちの「楽しかった!」「またやろうよ!」という言葉を頂けたので、その努力も報われたと思います。まずはかたちにすることが大切でした。そして頂いた喜びの声を素直に受け止めて、次につなげていきたいと思っています。
●今日のレースを成功という形で終えて、これから辻浦圭一さんはどういう活動をしていく予定ですか?
まだスポンサーも決まっていなくて、なにをするかってこともぜんぜん未確定なんですが、僕の意志は現役復帰して、もう1回レースでトップを走りたいと思っています!
辻浦圭一選手と松本青年会議所のみなさんが実現した
『カスティールサイクルクロスマツモト』のレポートはこちら!