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ツール・ド・フランス2011総集編

南半球のオーストラリアからやってきたアンダーソンが初めてマイヨ・ジョーヌを着てから30年後、ついにエヴァンスがシャンゼリゼでオーストラリア国歌を聞いた

 

 

●Foto Copyright : Graham Watson 2011 / Casey B. Gibson 2011 / Slipstream Sports, TDWSport.com / HTC Highroad

34歳で夢のマイヨ・ジョーヌを手に入れたエヴァンス

第98回ツール・ド・フランスは、大方の予想に反して最終日前日の個人タイムトライアルにまでもつれ込んだ。

 

しかしこのTTで区間2位になり、総合首位に立ったカデル・エヴァンス(BMCレーシング)は、実は今年のツールでは、3週間にわたって非常に安定した走りを見せていた。

 

彼は第1ステージで2位になったあと、ガリビエ区間で一度4位に落ちた以外は、ずっと総合3位内をキープしていたのだ。

 

第2ステージのチームタイムトライアルでも、彼が所属するBMCレーシングは区間2位に入り、序盤の難関ステージだったミュール・ド・ブルターニュにゴールした第4ステージでは、区間優勝すらしていた。

 

トマ・ヴォクレール(ヨーロッパカー)らの逃げが決まり、総合首位が入れ替わった第9ステージ終了時点ですら、エヴァンスは総合3位にとどまり“その時”をじっと待ち続けていたのだ。

 

ツールのようなビッグステージレースで優勝するには、爆発的な強さを持つことも大切だが、彼のようにコンスタントに安定した走りができることも重要なのだと証明したわけだ。

 

MTBからロードに転向し、初めてツールに挑んだのは2005年。万年2位と呼ばれ続け、苦しい時期を乗り越え、7度目の挑戦でやっと獲得した栄冠だった。

 

34歳という年齢はツールウイナーとしては若くはない。ランス・アームストロングが7連覇を達成したときも、カルロス・サストレが2008年に優勝したときも、ともに33歳だった。

 

1981年にフィル・アンダーソンは、オーストラリア人としてだけでなく、ヨーロッパ以外の国の出身者として初めてマイヨ・ジョーヌにソデを通した。しかし、パリの表彰台に上がったことは一度もなかった。30年かけて、やっとオーストラリアはシャンゼリゼに国歌を響かせられたのだ。

 

「自転車選手にとって、シャンゼリゼに戻って母国の国歌を待っているのは究極の夢だよ。たくさんのオーストラリア人が実現できる夢ではない。

 

この勝利は、故郷のみんなのための勝利だ」と、喜びを語ったエヴァンスは、パリの表彰台の中央でマイヨ・ジョーヌを着た喜びをかみしめていた。

アルカンシエル率いるアーガイル艦隊が大活躍!

世界チャンピオンが着るアルカンシエルには、長年“呪い”のジンクスがあった。それはアルカンシエルを着た選手は、勝ち星に恵まれなかったり、落車などの不幸に見舞われるというものだった。


しかし、今年の世界チャンピオンは北欧神話の雷神の名を持つトール・フースホフトだった。彼はそんな呪いなど、まるで雷の一撃ではね返してしまったようだった。


アルカンシエルが率いる米国のチームガーミン・サーヴェロは、第2ステージのチームタイムトライアルで初優勝。4度目のツール挑戦で、ついにステージ優勝を果たした。


しかも、フースホフトがマイヨ・ジョーヌを獲得し、中央山塊初日の第8ステージまで守り続けたのだ。


ツールに合わせ、白地にトレードマークであるアーガイル柄をあしらった新ジャージに衣替えしたチームガーミン・サーヴェロは、マイヨ・ジョーヌのために前半戦のレースをきっちりとコントロール。まさにアーガイル艦隊の名にふさわしい走りを見せてくれた。


そして母国の独立記念日には、タイラー・ファラーが亡き友ウォートル・ウェイラントに捧げる区間優勝も果たしている。


アルカンシエルのフースホフトの活躍は前半戦で終わりはしなかった。彼はオービスク峠越えがあったピレネー区間で逃げ切って区間優勝しただけでなく、アルプスでも雨のステージで同郷のエドワルド・ボアソンハーゲン(スカイ)とゴールスプリントを競って2勝目を上げたのだ。


これだけ強い世界チャンピオンを見たのは、本当に久しぶりだった。チームガーミン・サーヴェロは、今年のツールで区間4勝を上げ、チーム時間賞も獲得してパリの表彰台に上がっている。


残念ながらデービッド・ザブリスキーだけは怪我で途中棄権していたが、等身大写真パネルでチームメートたちと一緒に表彰台に上がる栄誉を得た。

フランスの星、ヴォクレールの奮闘

開催国でありながら1985年のベルナール・イノー以来、25年間も優勝者が出ていないフランスは、長年母国のマイヨ・ジョーヌが誕生するのを待ち続けている。


その願いが今年、ひょっとしたら叶うのではないかという好機がフランスに訪れた。


中央山塊で競われた第9ステージで、逃げに加わってマイヨ・ジョーヌを獲得したヴォクレールが、大方の予想に反して終盤まで奮闘したためだった。


彼を支えたのはヨーロッパカーのチームメート、とりわけクライマーのピエール・ロランだった。ピレネーでもアルプスでも、ロランは鉄壁の走りでマイヨ・ジョーヌをエスコートし、メイングループでゴールへと導いたのだ。


そんな走りを見たフランス人たちは、「ひょっとしたら、このままヴォクレールがマイヨ・ジョーヌを守ってパリにたどり着くのではないか」という淡い期待を抱いて浮き足立っていたが、誰よりも本人が一番冷静だった。


「個人タイムトライアルがあるかぎり、チャンスはゼロだよ」と、ヴォクレールは主催紙にコメントしていた。


そうして迎えたラルプ・デュエズで、ヨーロッパカーはヴォクレールのマイヨ・ジョーヌを守る走りから、ロランのマイヨ・ブラン獲得に戦略を切り替え、それが成功した。


この日、ヴォクレールを集団に残してアタックしたロランは、マイヨ・ブランを獲得するどころか、ラルプ・デュエズで区間優勝まで勝ち取ってしまったのだ。


フランス人が伝説のラルプ・デュエズで優勝したのは、86年のイノー以来だった。


ヴォクレールはここでマイヨ・ジョーヌを失ってしまったが、翌日の個人タイムトライアルでも健闘し、総合4位という好成績でパリに到着した。


低迷するフランス勢が総合4位に入ったのは、2000年のクリストフ・モロー以来だった。

カヴェンディッシュ、マイヨ・ベールで凱旋優勝!

ポイント賞のマイヨ・ベール争いは今年も白熱した。

 

英国人のマーク・カヴェンディッシュ(HTC・ハイロード)は、昨年は区間5勝したにもかかわらず、マイヨ・ベールをイタリアのベテラン、アレッサンドロ・ペタッキに持ってかれてしまったが、今年はタイムオーバー救済ルールが彼を栄光に導いてくれたようだ。

 

過酷なアルプス区間は完走できないだろうと言われていたカヴェンディッシュだったが、参加者の20%が制限時間内にゴールできなかった場合は救済するというルールが2日間適用されたため、彼はタイムオーバーをまぬがれ、体力を温存したままパリにたどり着くことができたのだ。

 

そしてマイヨ・ベールでシャンゼリゼゴールを制したカヴェンディッシュは、ついに手に入れたマイヨ・ベールにキスをした。それは彼にとって、ツールで20回目の区間優勝でもあった。

 

 

                 *    *    *

 

 

今年のツールにも、様々なドラマがあった。ダブルツールを狙っていたアルベルト・コンタドール(サクソバンク・サンガード)が初日から落車に巻き込まれて遅れを取り、その後の落車で負ったヒザのケガが、彼の野望を打ち砕いた。

 

今年も落車はビッグネームたちのツールを台なしにしている。ブラッドリー・ウィギンス(スカイ)、ユルフン・バンデンブルック(オメガファーマ・ロット)、そしてアレクサンドル・ヴィノクロフ(アスタナ)。勝利の女神は、時に残酷な仕打ちで選手たちの希望を打ち砕くものだ。

 

フランクとアンディのシュレク兄弟(レオパード・トレック)は小国ルクセンブルクの大声援を受け、自分たちのために作られた新チームでツール制覇を狙ったが、今年はまだ機が熟してはいなかったようだ。

 

それでも兄弟揃ってパリの表彰台に上がるという快挙は称賛に値するだろう。もちろん、それは彼らが望んでいたことではなかったのだが。1つの戦いが終われば、また次の戦いがスタートする。

 

マイヨ・ジョーヌは来年、懐かしいフランスのルコック社製に変わる予定だ。その新しいデザインの栄光は、新しいチャンピオンを待っている。

 

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